紀元前二千五百年頃に栄えたインダス文明(現在のパキスタンを中心とした)を担った人種は
現在の南インドに主流のドラヴィダ人(比較的色が黒く、背の低い人種)であったとされています。
その後、紀元前千五百年前後にに北西から進入してきた。「アーリヤ人」(比較的色が白く、背が高い人たち。インダス文明の人たちより、文化的に劣っていたとされている。)により、「ヴェーダ」聖典、思想がもたらされ、インドにバラモン教が定着しました。
紀元前8世紀頃から鉄器の使用が始まったとされます。
紀元前五百年ごろ長きバラモン至上主義の反旗として、わが国にも深く関係する仏教、そしてジャイナ教が起こりました。
紀元前三百二十一年北インドの大半をマウリヤ朝チャンドラグプタ王が統治、インドにはじめての大規模な帝国を築きました。そして戦乱に明け暮れたマウリヤ朝三世アショーカ王は紀元前二百五十年ごろ非暴力主義の仏教に劇的な改宗をし、仏教を隆盛させました。
このアショーカ王の記録にはこの頃、支配域以南、南インドには「ケーララプトラ」(南西)「サティヤプトラ」(北西)「パーンディヤ」(南東)「チョーラ」(北東)の国があったと記してあります。
紀元前二百年から紀元後三百年にかけて、北インドの帝国は崩壊し、群雄割拠の時代に再び入ります。
一方その頃の古代南インドにはチェーラ[Cera](西、現在カラリパヤットが伝わるケーララ州)チョーラ[Chola](東、現在のタミルナドゥ州)パーンディヤ[Pandya](南、ケーララとタミルナドゥの南部)の三大王国が興る。
チェーラの国には紀元一世紀には聖トーマスが渡り、キリスト教を布教したと言う伝説も残り、古くからアラビア海を介して西方との海洋交易が成り立っていました。
パーンディヤを治めていた女王は五百の象、四千の騎兵、一万三千の歩兵からなる軍隊を擁していたといわれ、また密林地帯の多いケーララでの戦いは、兜に胸当て程度の軽防具でのゲリラ戦、足に鎌をくくりつけて足を振り回すなどの戦いもあったようである。
三国は絶えず抗争を繰り返し、英雄詩や歌謡の大きな題材を残しました。
チョーラ朝を主に、この古代タミル(南インド)の文化をシャンガム(文芸院)時代ともいい、先アーリア、アーリアのサンスクリット文学、並びに仏教思想の融合が行なわれ、文化、芸術、社会機構が発達した時代でした。
しかし、5世紀から9世紀にかけて、強大であったチョーラ朝は一時衰退し、
南インドの覇権はパッラヴァ朝[Pallava](現在のタミルナドゥ)、チャールキヤ朝[Charkya](現在のマイソール、カルナータカ州)の長い戦いに移行しました。
ちなみに禅宗の基礎を作った達磨大師[Bodhi Darma]は南インドの一国の第三王子として生まれ、中国に渡り時の梁の国王 武帝と五百二十年に謁見したと記録にあります。その後武帝の働きによりは日本に仏教伝来は五百三十八年。
この頃、かつての三国の雄、残りの二国チェーラとパーンディヤは強力なパッラヴァ、チャールキヤに対して、侵略されそうになると牽制して、また時に友好的な隣人として、それぞれの国を保っていました。
9世紀から12世紀には再びチョーラ朝が盛り返し、南インドのみならず、東南アジア、スマトラにまで勢力を拡大しましたが、12世紀後半には衰退してしまいました。
この頃、かつてのライバルであったチョーラ(Chola)朝が隆盛そして衰退するのと並行して、チェーラ(Cera)朝も崩壊し、地理的条件で完全には征服されずに、チェーラ朝は小候国の乱立状態となりました。
この5世紀から12世紀にかけての頃に、デカン高原(インド亜大陸の中央に広がる大高原)の西部は北と南結ぶ重要な文化の交流経路でした。そして北方からこの経路を通って、ヤートラブラーミン(ヤートラ 旅。ブラーミン 司祭者階級)と呼ばれる人たちがケーララの地に流れ、七世紀までに定住を始めました。
彼らのうち、チャッタールと呼ばれる一団が「サライ(Salai)」という学問と武芸、芸術を学ぶ機関を作り、
十一世紀の頃になると、ナーヤル[Nayar]またはナイル[Nair]という階級がケーララの武力を治める有力な立場を得ます。この頃にカラリ[kalari]と呼ばれる武道場が出来たとされ、
8世紀に流行したヒンドゥー教の中でも秘儀的な一派、タントラ教(起源は6世紀の東インド、チベットの文化、バラモン教の要素も含み、シャクティ(性力)崇拝と呼ばれる男性的エネルギーと女性的エネルギーの発現、及び融合から生まれる生命力の根源、神秘などを主眼に置く。)を崇拝。
また「ダーヌルヴェーダ」(弓の聖典)と呼ばれる兵法書と土着の戦法の融合からなる訓練法が成り立ったと考えられます。
ナーヤル階級の台頭はこの十世紀頃から西洋、イギリスに支配される十七世紀頃まで続き、(参考までに1288年、93年「東方見聞録」マルコポーロ インド訪問。 1498年ポルトガル人ヴァスコダガマ ケーララ カリカットに訪問。古くからインド西海岸はアラビア海を通じてアラブ諸国との貿易が盛んであった。〈インドの主な輸入品は馬。インドでは繁殖、飼育技術が発展しなかった。〉が15、6世紀から大航海時代に入ったヨーロッパ諸国は貿易権の独占をたくらんだ。)
社会の中でカラリパヤットは重要な立場を持っていました。(ちなみにこの頃は特に武術をさす名称はなく、カラリパヤットと言う言葉は20世紀初頭に作られました。)
カラリの訓練を受けた兵士達から後にケーララ地域で有名なカタカリ[kathakali]という長い訓練をようするパントマイム劇が生まれます。男性役者のみによって女形も演じられ、わが国の歌舞伎などの芸道を思わせます。また剣を振るって激しく飛び跳ねて舞い踊り、先祖、英雄を讃える舞踊ティーヤム[tyyam]も生まれました。
ちなみに日本とケーララの類似点は、ケーララは古くから海洋交易に頼る海洋性民族とされ、魚を多食、また水が豊富で稲作が盛ん、主食は米であり、性格は一般的に謙虚でまじめ。
建築物は赤瓦に高床、東南アジアや沖縄を思わせると言う、また寺院の作りも竹垣を配するなど日本の神社に近似しているといいます。
ちなみに、隣のタミル文化の詩の形態は「五・七・五・七・・・調」の韻から成る短歌や俳句に似た「クラール」と呼ばれる詩、インドのスローカ[Sloka](暗誦)という口伝のみによる知識の伝達形式にも付与しました。
参考文献 「インド史」1,2ロミラ ターパル、3パーシヴァル スピア著 1,2辛島、小西、山崎訳 3大内、李 、笠原訳 みすず書房
「世界地理4 南アジア」 (株)朝倉書店 織田武雄
「When The Body Becomes All Eyes」 Philip B Zarrilli著 Oxford University
Press
カラリパヤット成立までの古代から近世の歴史