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第15章:奄美大島編
経由地・鹿児島
平成18(2006)年:備忘録
目次
■経由地・鹿児島
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地図
▶
9月20日
(水) 晴一時雨 (沖縄青少年鹿児島会館・泊)
▶
9月21日
(木) 曇り (鹿児島市内散策後、奄美へ)
注
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仙巌園
(せんがんえん)
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石橋記念公園
▶
南州神社・南州墓地
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西郷隆盛終焉の地
▶
西南戦争
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西郷南州洞窟
▶
私学校跡
▶
鶴丸城跡(鹿児島城)
▶
照国(てるくに)神社
▶
斉鶴
(さいかく)
▶
国道58号
※本文中
赤字
は写真あり
_______________________________________
■経由地・鹿児島
地図
鹿児島市街地地図
地図検索サイト;マピオン(http://www.mapion.co.jp/)を加工
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9月20日
(水) 晴一時雨 (沖縄青少年鹿児島会館・泊)
14時、種子島・西之表港を出航したフェリーは、17時30分に鹿児島港に到着。次の予定地・奄美大島便には間に合わないので、昨年、屋久島に渡る際お世話になった、沖縄青少年鹿児島会館に宿泊する事にする。
同会館は、鹿児島港北埠頭前の桜島桟橋交差点を北に50m行った右側にあり、和室の個室で、宿泊費1500円の格安宿。フェリー下船後、同会館に電話を何度も掛けるが繋がらない。廃業したか電話番号が変わったのか・・・とりあえず直接出向く。
去年と同じ場所にあり、玄関を入ると女将さんが居た。電話番号もそのまま。何と携帯からの通話の際市外局番を回さずに掛けていた。繋がらないはず。去年と同じ部屋に宿泊する事が出来た。
近くのコンビニで弁当とビールを買ってきて部屋で夕食を摂り、久しぶりにテレビを見て8時に就寝する。
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9月21日
(木) 曇り (鹿児島市内散策後、奄美へ)
奄美大島便のフェリーは17時30分出航なので、空き時間を利用して、鹿児島市内の散策に出掛ける。市内中心街は、去年屋久島に渡る前日の7月7日の七夕の日に散策(屋久島編part1参照)したので、今日は、沖縄青少年鹿児島会館から北に約2.3km、鹿児島市の北部・磯地区にある島津家の別邸
仙巌園
(せんがんえん
注1
)別名・磯庭園に行く。
磯庭園は有料なので入園は残念し、少し引き返し、国道10号と同バイパスに挟まれた、祇園之州地区にある
石橋記念公園
(注2)
内を散策してから、
南州神社
と
南州墓地
(注3)
に立ち寄り、西郷隆盛公の墓参をしてから、国道10号手前から、鹿児島本線沿いの道に入り、天然温泉湯之山の入口にある
西郷隆盛終焉の地
(注4)
の碑に般若心経を唱え、
西南戦争
(注5)
で西郷隆盛が立てこもっていた洞窟(
西郷南州洞窟
)
(注6)
と、その先にある観光みやげ店「藤谷屋久杉センターせごどん」脇にある
西郷像
を見て、城山公園に行き、市街地と
桜島の展望
を楽しみながら昼食休憩をする。
昼食後、
私学校跡
(注7)
、
鶴丸城跡
(注8)
を経て、島津斉彬(照国公)を祀る神社・
照国
(てるくに)
神社
(注9)
に行く。国道10号と3号の分岐点である照国神社前交差点から
大鳥居
をくぐり境内に入り、
島津斉彬の像
や本殿前にある鶴が羽を広げた形をしている
斉鶴
(さいかく
注10
)と呼ばれるイヌマキの木を見てから、島津家の「丸に十の字」の家紋のある
神門
をくぐって本殿に参拝して照国神社を後にする。
照国神社前交差点から国道10号の北東約100m先の角に立っている
西郷隆盛銅像
に会いに行く。同像前は、日本一長い
国道58号
(注11)
の
起点
場所だが、鹿児島側は、この場所から東方にある泉町交差点の東側までの約700m間のみ。この短い国道58号、通称・朝日通りを通り、鹿児島港北埠頭旅客ターミナルに寄る。
奄美大島便のフェリーの受付開始は15時。それまでの間、天文館周辺の歴史散策をしてから、フェリーの乗船手続きをする。
奄美大島には、鹿児島からの直便と喜界島に寄ってから奄美大島に行く便があるが、喜界島に寄りたいので、奄美海運のフェリーにしたが、窓口で途中下船が出来ないと云われ、喜界島上陸は残念。奄美大島・名瀬港までの運賃11,100円(運賃¥8,800+自転車¥2,300)を支払い、乗船手続きをして17時10分に乗船する。
南州神社
南州墓地
西郷隆盛終焉の地碑
西郷南州洞窟
せごどん・西郷像
城山公園から見る桜島
私学校跡
鶴丸城跡
照国神社・大鳥居
斉鶴(さいかく)の木
島津斉彬の像
西郷隆盛銅像(国道58号)
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注
注1:仙巌園
(せんがんえん)
1658年(万治元)年、第19代薩摩藩主・島津光久が別邸として造営、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33)年に国指定名勝となった。別名磯庭園。また、尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)で島津家の歴史と文化を学ぶことができる。
場所:鹿児島県鹿児島市吉野町字磯(JR鹿児島中央駅から市営バスカゴシマシティビューで32分、仙巌園前下車すぐ)
開園時間:8時30分~17時30分(11/1日~3/15日は~17:20)
開園期間:通年、無休
入園料:①庭園コース¥1000 ②御殿コース¥1500(尚古集成館を含む)
駐車場:1日¥300
電話番号:099-247-1551
リンク:「旅行記 ・集成館の史跡と仙巌園」のHPで
→http://washimo-web.jp/Trip/Syuseikan/syuseikan.htm
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注2:
石橋記念公園・石橋記念館
鹿児島市の中心を流れる甲突川(こうつきがわ)には、約150年の江戸時代末期に、肥後から招かれた石工・岩永三五郎によって五つの大きなアーチ石橋(上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋)が架けられ、「甲突川の五石橋」と呼ばれていたが、1993(平成5)の集中豪雨による洪水で、五石橋のうち新上橋、武之橋が流失。残った3橋は河川改修に合わせて、稲荷川河口の祇園之洲地区に移設して復元・保存し、2000(平成12)年に、五石橋の歴史や技術を伝える石橋記念館を附設し石橋記念公園として開園したものである。
記念館に一番近い場所にあるのが「
西田橋
」で、橋を渡ると
御門
があり、鹿児島城下の玄関口として藩の威光を誇示、欄干には青銅擬宝珠を冠するなど五大石橋の中でも最も費用を使い豪華に造られている。
西田橋を渡り、稲荷川を渡った先にあるのが「
高麗橋
」で、橋の袂には、五石橋を造った肥後の名石工・岩永三五郎の像が建立されている。この橋は、多くの倒幕志士を輩出した下級藩士が多く住んでいた加治屋町と高麗町を結んでいた橋であった。
そして、一番海岸側に移築されているのが、実際には一番山側に架けられていた「
玉江橋
」で、3橋の中で最も建築当時の姿を残していると云われている。
◇石橋記念公園:常時開園
◇石橋記念館
場所:鹿児島市浜町
開館時間:9時~17時(7、8月は19:00まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)年末年始
入場料:無料
電話:099-248-6661
◇五石橋諸元表
橋名
橋長
橋幅
架橋年
建設費
支間数
西田橋
49.5m
6.2m
1846年
7,127両
4連アーチ
高麗橋
54.9m
5.4m
1847年
2,800両
4連アーチ
玉江橋
50.7m
4.0m
1849年
1.560両
4連アーチ
新上橋
46.6m
4.8m
1845年
2,415両
4連アーチ
武之橋
71.0m
5.5m
1846年
2,400両
5連アーチ
◇写真
西田橋
西田橋御門
高麗橋
玉江橋
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注3:
南州神社と南州墓地
JR鹿児島駅の北西に直線で680m、眼下に桜島を望む高台にある南洲公園内(鹿児島市上竜尾町)にある西郷隆盛を祀る神社である。旧社格は無格社。西南戦争での西郷軍方の戦死者が埋葬される南洲墓地の北隣にある。
1877(明治10)年9月24日、西南戦争(注5参照)が終結すると、鹿児島県令・岩村通俊は西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬したが、1879(明治12)年、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて計2023名が葬られる南洲墓地となった。
南州墓地には、西郷隆盛の偉徳を偲び墓参者が増加したことから、1830(明治13年)、南洲墓地の隣に参拝所が設けられ、それが、1922(大正11)年6月28日、南洲神社として認定された。
また、西郷隆盛を祀る同名の神社が、1903(明治35)年沖永良部島・鹿児島県和泊町、1929(昭和4)年宮崎県都城市、1976(昭和51)年山形県酒田市に建立されている。
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注4:
西郷隆盛終焉の地
現地の案内板より
ズドン!ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877(明治10)年9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのたけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷に銃声がやみ、西郷の死体発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。
※注6の西郷南州洞窟より続く。
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注5:
西南戦争
※注7の私学校跡から続く。
西郷隆盛を中心に中央政府に対抗するエネルギーの中で誕生した私学校の多くの人材が、県令大山綱良(旧薩摩藩士)によって県政の要職に登用、警察官の大部分は私学校派士族で固められ、鹿児島は中央政府の意のままにならない半独立国家のような存在となっていった。
一方、士族の反政府風潮を背景に、板垣退助率いる立志社(土佐の政治結社)の士族が中心となり、自由民権運動が高まり、1876(明治9)年1月に入ると、地租改正に不満を抱く農民による一揆が各県で起こると同時に、同年3月に廃刀令と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した士族が、熊本県で「神風連の乱」、福岡県で「秋月の乱」、山口県で「萩の乱」が相次いで起こり、彼ら士族は反政府運動のシンボルとして西郷隆盛の決起を期待した。
そんな中、鹿児島士族を反政府の拠点とみす政府側の警視庁大警視・川路利良(としなが・薩摩藩郷士出身)は、私学校の内部破壊工作の為、私学校に属する「城下士」に対して強い対抗意識を持っていた鹿児島の「郷士」出身者・中原尚雄・少警部以下24名の警吏を、帰郷するという名目で鹿児島へと派遣し、私学校側を強く刺激した。
同時に、政府は、鹿児島陸軍の火薬が私学校側の手に渡るのを警戒し、1877(明治10)年1月29日、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器・弾薬を赤龍丸で大阪へ搬出した。
こうした処置に憤った私学校の生徒達は、30日夜以後、鹿児島草牟田陸軍火薬局ならびに磯海軍造船所付属火薬庫を襲って弾薬を奪い、政府密偵の中原尚雄少警部らの一団を捕らえて西郷暗殺計画を自白させ、これを理由に、1877(明治10)年2月15日、西郷を擁して武装蜂起。九州各地の反政府士族も呼応決起、西南戦争へと突入した。
西郷軍は、2月22日、熊本城にある熊本鎮台に進軍。早々に落城すると思われたが攻めきれず、2ヶ月後には、兵力・武器・弾薬の補給にまさった政府軍が優勢になり、守勢に回った西郷軍は、熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、退却を余儀なくされ、政府軍に追われて9月に鹿児島に戻り、城山に布陣し、最後の5日間を西郷南州洞窟で過し、9月24日、自刃し半年に及ぶ戦闘は終結した。
西郷軍の総兵力は3万余、内1万3000は私学校派。政府軍の総兵力は5万8600。西南戦争による西郷軍死者は6765名。官軍死者は6403名。
なお、西郷が自刃する4ヶ月前の明治10年5月26日、木戸孝允が京都で病死。翌明治11年5月14日、大久保利通が、刺客に襲われて死亡。
明治新政府樹立の中心にたってきた功労者、西郷(享年51歳)、木戸(享年45歳)、大久保(享年49歳)。「維新の三傑」と呼ばれた偉人がことごとくあの世に旅立ったことは、ある意味新しい時代の幕開けであったのか。
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注6:
西郷南州洞窟
現地の案内板より
1877(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。
※注3の西郷隆盛終焉の地に続く
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注7:
私学校跡
明治維新後の中央政府で筆頭参議の地位にあった西郷隆盛は、1873(明治6)年の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野し帰郷していたが、江藤新平が「佐賀の乱」を起こして敗れたことを契機に、薩摩士族の受け皿として、1874(明治7)年6月、鶴丸城(鹿児島城)の厩(うまや)跡(現在、鹿児島医療センター)に「国家のため、天下のため、自らの命を投げ出して、正義を貫く人間をつくる」ことを目的とした「私学校」を開設した。
私学校は、銃隊学校、砲術学校、陸軍士官養成のための幼年学校から構成され、生徒数は約800人、城下に12、県下に136もの分校ができた。幼年学校は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されたことから、賞典学校とも呼ばれ、西郷隆盛・二千石、大久保利通・千八百石、鹿児島県令大山綱良・八百石、桐野利秋・二百石を拠出した。
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注8:
鶴丸城跡(鹿児島城)
天守閣を待たない、本丸御殿と堀を隔てた二の丸を設けただけの質素な屋形造りで、鶴が羽を広げた形をしていたので鶴丸城と呼ばれる鹿児島城は、1602(慶長7)年、島津家18代当主で、薩摩藩初代藩主
(※)
・島津忠恒(ただつね)改め家久(いえひさ)によって築かれたが、77万石の大名の居城としては小規模で、城郭というよりも館城と呼ぶのがふさわしい単純なものであった。
これは徳川幕府に対して恭順の意を表わすためだったといわれている。しかし、薩摩藩は、領内に郷を単位とした百を越す外城(とじょう)を築き、そこに武士を住まわせ、領内全体で防御を固めると云う全国でも例を見ない体制を整えていたのも事実である。
なお、本丸は、明治6年12月の大火で、二の丸は明治10年9月、西南戦争の官軍の攻撃によって、それぞれ焼失。現在、城跡は一部に残る石垣と堀、擬宝珠付きの石橋が往時の姿を偲ばせるのみで、本丸御殿跡に歴史資料センター黎明(れいめい)館が、二の丸跡には図書館が建っている。
※薩摩藩初代藩主
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、薩摩は西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで、島津義弘の三男・島津忠恒(後に家久と改名)が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすとする通説から、島津家18代当主島津忠恒(家久)を薩摩藩初代藩主とする。その後、明治維新の廃藩置県まで12代を数える。
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注9:
照国(てるくに)神社
薩摩藩11代藩主(島津家28代当主)島津斉彬(なりあきら)の死後、1863(文久3)年に照国大明神の神号が授与されたことから、神号の照国を冠した同社が東照宮(徳川家康)を祀っていた南泉(なんぜん)院跡に社殿が建立された。1873(明治6)年には県社に指定、1882(明治15)年には別格官幣社に昇格している。また、大鳥居は1941(昭和16)年に皇紀2600年(昭和15年)を記念して建てられた。
その大鳥居のある、照国神社前交差点は、北九州門司区から九州東側(国道10号)と、西側(国道3号)を通って鹿児島に至る九州の大動脈の交差する場所でもある。
なお、同神社は鹿児島県下で最も多い参拝者を誇る神社で、初詣の参拝者も例年鹿児島県1位の座を守っている。
備考(照国神社に掲示してある御由緒の内容文)
御祭神は文化六年(1809年)薩摩藩主島津斉興(なりおき)公の嫡男として江戸でご誕生になりました。
幼少の頃曾祖父母島津重豪公や母、賢章院の薫陶を受けられ学問を好まれ、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的な知識を身につけられました。
公は嘉永四年(1851年)43歳で藩主に就任されるや、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努められました。さらに、その核なった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置され「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに、近代日本の礎をお築きになったのです。
また、公発案による日章旗(日の丸)の制定は、まさに日本が国際社会にその一歩をしるした象徴であります。
公は安政二年(1858年)50歳で薨去されました。
御治世僅か7年でありましたが、この間、明治維新に活躍した多くの人材を育成しておられます。
文久三年(1863年)には御生前の幾多の御事蹟を称えて、勅命により照国大明神の御神号授けられました。そして一社を南泉院の郭内に創建し、翌元治元年照国神社と称しました。
当社は明治6年県社、同15年別格官幣社に列格せされ、今日鹿児島県の総守護神・氏神様として崇拝されております。
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注10:
斉鶴
(さいかく)
島津斉彬の時世に植えられた、幹周り1.82m・木の高さ3.0m、樹齢170年のイヌマキの木で、鶴が羽を広げた形をしている。この鶴が羽を広げた形は、薩摩藩武家屋敷跡が残る、鹿児島県知覧町の特攻平和会館前にもある。
個人的見解であるが、鹿児島城は、鶴が羽を広げた形で鶴丸城と呼ばれ、島津家別邸の仙巌園(別名・磯庭園)には、城を模したと思われる島津斉彬作の鶴燈籠が同じ形をしているところから、斉鶴(さいかく)は、島津斉彬の遺徳を偲び、斉彬の「斉」と「鶴」の形から「斉鶴」と名付けられ、鹿児島地方を象徴するものの一つと思慮する。
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注11:
国道58号
鹿児島市から種子島、奄美大島を経由し沖縄県那覇市の明治橋へ至る国道で、総距離は約857km、日本で一番長い国道である。ただし、同国道は、海上国道と呼ばれる海上距離が約600km含まれる(陸上距離255.5km)。この海上区間も含めると日本一と云う事。
全区間走行可能な陸上距離が一番長いのは、東京都中央区日本橋を起点に青森市の青森県庁前を終点とする国道4号の総距離739kmである。
なお、海上国道と呼ばれるルートは、国道58号以外では、国道30号(起点、岡山県岡山市~終点・香川県高松市間を宇高国道フェリーや四国フェリーで結ばれている)、や国道279号(起点・北海道函館市~終点・青森県上北郡野辺地町間を津軽海峡フェリーで結ばれている)がある。
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