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和坊雑記帳


考:皇太子殿下の離婚

2009.7.10

 6月9日の皇太子殿下御成婚記念日によせて


 皇太子徳仁親王(こうたいしなるひとしんのう:1960(昭和35)年2月23日生49歳)は、皇室の慣習の専任の養育係を置かず、今上天皇(当時皇太子)、皇后美智子夫妻の元で、弟・礼宮文仁親王(現・秋篠宮)、妹・紀宮清子内親王(現・黒田清子)とともに新しい皇室像の中で育ち、1989(昭和64)年に皇太子となり、1993(平成5)年に小和田雅子と結婚の儀を挙げ、2001(平成13)年に長女・敬宮愛子内親王を儲けた。

 元々、皇太子妃雅子様は、外務公務員I種試験に合格して間もない1986(昭和61)年、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、当時外務省条約局長だった父・小和田恆(おわだひさし)とともに招かれ、この茶会で皇太子殿下が、好感を持ち、交際がはじまり、親王妃候補となったが、母方の祖父・江頭豊が水俣病事件を引き起こしたチッソの社長であり、患者への補償を拒否し、水俣病患者とその家族が「怨」と大書した旗を掲げデモを行っていたこともあり、当時宮内庁長官だった富田朝彦も、「チッソの件が付随しますのでお諦めください」と進言する等多くの関係者がこの結婚に対して反対し、一時期親王妃候補から外されていたと云う経緯があった。

 しかし、皇太子殿下は諦めきれず、昭和天皇崩御後に美智子皇后陛下の後押し(個人的見解)もあって、親王妃候補に復帰し、結果1993(平成5)年6月9日、「結婚の儀」が執り行われ、雅子妃は懐妊するが、1999(平成11)年12月30日に流産。

 その原因が12月上旬に海外公務が行われたことと、懐妊報道の過熱が指摘され、特に過度の報道に対して皇太子徳仁親王は異例ともいえる遺憾の意を表明した。

 その後、雅子妃は、2000(平成12)年頃より、体調不良による公務や祭祀への欠席が目立つようになり、2004(平成16)年7月に、適応障害(主治医の慶応大学・大野裕教授)で長期間静養している事実が公表された。以後5年余が経過する。

 その間の雅子妃の行動を見聞するに、公務や宮中祭祀は出来ないが、日常生活には異常が認められない状態が続いている。にも拘らず、症状が改善しないのは何故なのか。

 東宮御所(ご自宅)内のご家族や雅子妃の実家である小和田家、雅子妃の母の実家である江頭家との関係は中睦まじく良好であることは周知の事実であるが、その反面、今上天皇と皇后への参内(訪問)の回数が激減すると同時に、秋篠宮家との関係も良好とは云い難い。と云った事実から判断すれば、嫁ぎ先の天皇家との間にわだかまりや宮中祭祀そのものへの違和感が有るのではないか、それが心の重荷になって適応障害が発症しているのではないか。

 だとすれば、天皇家は勿論、国民にとっても不幸の極みと云わざるを得ない。これが、正鵠(せいこく:物事の急所)を射ているか否かは別にして、5年間も公務を放棄、その間に、皇太子にして「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」と人格否定発言(2004(平成16)年5月、訪欧前の記者会見)をせざるを得ない異常、愛子様への溺愛の結果と思われる皇室の人間としては首を傾げざるを得ない、愛子様の過度の甘えん坊ぶり等々の異常事態に至らしめ、また、何時根治するか分からない雅子妃に、将来の皇后陛下になる資質はゼロと云っても過言ではないのではないか。

 だとすれば、皇太子の対応は二通りしか無いのではないか。不敬を覚悟で申し述べたい。

 その1は、
 皇太子殿下の御心である、すべての公務は「天皇陛下をお助けしつつ、国民の幸福を願い、国民と苦楽を共にしていく」という皇室のあるべき姿が基礎にある(2008(平成20)年の誕生日記者会見の発言)との原点に戻り、雅子妃と愛子様の長髪を短髪にするように云い渡し、それを拒絶するようならば、日本国と国民の為に離婚を決意すべきであろう。(雅子妃と愛子様の長髪の件に関しては、両名が髪を切った時。切らなければと思った時が症状の回復時と思っている。何の根拠もなく個人的直感のみで余計な記述である)。

 その2は
 離婚の決断が出来なければ、皇太子の身分を弟君の秋篠宮に譲るべきであろう。なぜならば、雅子妃が皇后陛下になれば、雅子妃を裏で操る、自虐史観(※1)の持ち主として知られる実父・小和田恆やそれらの類の傀儡政権(?)になる危険性と共に皇室の権威の失墜に繋がるのではないかと危惧するが、どうか。
※1自虐史観(じぎゃくしかん):自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観で、戦後民主主義教育によって自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない人間が増え、偏った歴史観を国民に植え付ける結果となっている。

追記


 皇太子殿下の母親、美智子皇后陛下は、軽井沢のテニストーナメントで避暑に訪れていた今上陛下(当時皇太子)に出会い、テニスを通して交際を深めていった。

 しかし、結婚に関しては、当時は皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であったことから、香淳皇后(昭和時代の皇后陛下)をはじめとする旧皇族・旧華族の婦人達から、猛烈な反発と批判を受け続けたものの、最終的には昭和天皇の決断によって、1959(昭和34)年4月10日に結婚の儀が執り行われた。

 明治以降では初の平民の皇太子妃であり、国民からは熱烈に歓迎され、「ミッチー・ブーム」が興り、成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビの普及にも貢献するとともに、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置し、自ら調理を行い、また、浩宮徳仁親王(現皇太子)、礼宮文仁親王(現秋篠宮)、紀宮清子内親王(現黒田夫人)らの出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育(ふいく)官制度と云う慣例を廃止、3人の親王、内親王を一般国民と同じく、ご自分で育てると云う道をとられ、これらの改変をマスコミは挙(こぞ)って賞賛し、新しい皇室の在り方として、国民の間で強く支持され、開かれた皇室のスタートを切った。

 しかし、日本の天皇陛下は、日本国の元首(実質上の)であると同時に、日本人が日本人として存在する心の拠り所の伝統の体現者としての祭祀継承者でもあり、その意味では、現在では使用されなくなった現人神そのもの存在であろうと思う。その天皇陛下になるべき皇位継承者とし皇子(おうじ)を育てる制度であった、傅育(ふいく)官制度(※2)も廃止したのである。
※2傅育(ふいく)官制度:古代から、現代まで連綿と継承されてきた伝統を継承・体現する者としての皇子(おうじ)は、満3歳で両陛下のもとを離れ、一般的な生活から隔離され、東宮傅育官(とうぐうふいくかん)によって育てられ、皇位を継承する者としての資質を形成する教育が行われた制度。

 やがては、古代を起源とする宮中祭祀の日本で唯一継承体現者になられるであろう皇太子が、一般国民と同じように育てられることの何処に意味があるのだろうか。

 おそれながら、美智子皇后陛下によるこの改変こそが、雅子妃を不幸にしてしまった元凶と考えている。

 それは、知性品位に満ち溢れている皇太子殿下が、皇室の伝統を体現するものとしての育ちを受けておれば、皇太子妃を選定する判断も異なっていたと云うことである。これは、雅子様の人格が劣ると云う意味ではない。雅子様は、その学歴、経歴、能力は飛びぬけて優れている人物ではあるが、皇室で求められる資質とは、異なっていたと云うことで、皇太子殿下は皆の反対を押し切ってまでも、思いを遂げなかったと云う意味である。

 この様な意味からも、皇太子殿下が離婚を決意すれば、外務省のキャリアとして能力と資質を持つ雅子様は、元皇太子妃の特命大使と云った肩書で、世界に躍進できる素晴らしい世界が開け、皇太子殿下は、新妃殿下との間に男子を儲ければ、皇位継承問題も安泰し、日本国民にとっても万々歳。全てが吉兆目出度し、目出度し。

 不敬を覚悟に再度警鐘する。美智子皇后陛下、あなたが受けた旧皇族・旧華族の婦人達による陰湿な苛めによる心労が重なり苦難の日々が続く中、唯一の味方である家族の存在は大きな心の支えになっていたことは想像だにしない。

 それ故に家族と共に生活をしたいと云う心情は痛いほど理解できるものの、ことここに来たならば、日本国民、否皇室の未来永劫の繁栄の為に、皇太子殿下の離婚の承認と傅育(ふいく)官制度の復活の指示をして頂きたい。でなければ、第2、第3の雅子様が出る不安は消えることは無い。

 皇太子殿下。皆が幸せになる為、雅子様との離婚のご決断を。


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