耕英の扉
歴史散策路
耕野村の苦悩
満州開拓
駒の湯との縁
耕英開拓
耕英分校建設
耕英への恵
開拓道路
一筋の光
震災を経て
耕英散策路
分校のお話
耕英のお話
耕英・英国の絆
耕英・新潟の絆
心のメッセージ
感謝いたします
ひとりごと








        耕英歴史の散策路      


城壁のように侵入を阻むブナの原生林。 

標高600メートル。
最低気温マイナス18度。積雪2〜3メートル。

強風が荒れ狂う暴風豪雪地帯


六十数年前までここは人が住むことが許されない前人未到の地。

人はどうして、ここに暮さなければならなかったのか。

ここから60年前の耕英をご案内します

満州開拓団の帰国 満州開拓団の帰国列車の中での風景 満州国国旗

日本人の生きることへの執念がここにありました

昭和15年から農地不足解決策として満州に新たな土地を求めた宮城県伊具郡

耕野村。

その成功の喜びも束の間。

耕野村移民団一行は昭和20年、日本の敗戦とともに過酷な現実に引き込まれて

行きました.

ソ連軍の攻撃で死と隣り合わせの日々。生きているのが奇跡と思えるほど残虐な

場面を乗り越えて日本の地を踏んだ後には新たな試練が待っていました。

自分たちの土地を自らの手で切り開かねばならない。

ひとから何と言われようと 己の厳しい宿命と真正面から向き合い

形に残した60年前の日本人の生きることへの執念がここにありました
 
  
                                        
耕野村の苦悩
この時すでに栗駒山・駒の湯との運命の歯車が回っていた!?
宮城県伊具郡耕野村の村長 八島考二は農村貧困問題解決策として満州への分村計画を進めました。そこで宮城県庁職員の菅原兵市(駒の湯の所有者を父とする)と運命的な出会いがありました。 八島孝二氏
八島考二村長
満州開拓
耕野開拓団満州開拓
昭和15年〜昭和20年

あの敗戦がなければ・・・。
若い八島村長の未来を切り開こうとする熱い心に共感した菅原兵市氏は県庁を依願退職し八島村長と満州開拓に乗り出しました。自ら団長として満州の開拓にあたり成功をおさめました。しかし敗戦となり満州の地で帰らぬ人と・・・。
満州からの帰国
駒の湯との縁

  新天地浮上!!
耕野開拓団が満州から帰京すると新たな土地を求めなければならず、団長の菅原兵市氏の父親が所有する駒の湯付近の国有林を解放すれば・・・と第二の耕野開拓団が結成され栗駒山に送られました。 駒ノ湯温泉
耕英開拓
昭和22年〜
”耕英”と名づけた土地に
  ぞくぞく入植!!
満州耕野開拓団より秀でた開拓地にしようとの願いから秀(ひで)→英(ひで)と耕野の一字をとって”耕英”と名づけ二年有余の駒の湯での共同生活がスタートしました。
その後周辺の地域からも自分の土地を求めて耕英に入植し始めました。
共同生活した駒ノ湯温泉
耕英分校建設   昭和25年11月完成
耕英開拓者の魂が形になった学校  耕英分校
念願の耕英分校建設の許可。農林省予算から四十万円の補助。町村負担分は開拓者の奉仕作業。
日中は住宅・学校建設。夜は現金収入のための炭焼き。困窮した生活。耕英開拓者が一番苦しい時期に完成させた
学校 ”耕英分校”。
木造の耕英分校
耕英への恵
昭和31年〜
チャンスがやって来た!!
今までの苦労が恵みとなって堰を切ったようにあふれました。なめこ栽培の成功です。
毎日が試行錯誤の日々。次々と特産品を生み出した産業開拓の時期です。

開拓道路
昭和24年に工事着工。車が普通に通れるようになったのは昭和51年。長い道のりでした。
日本一長いといわれる開拓道路。
全長22q。延べ17年の歳月を工事に費やし、27年もの時が過ぎてゆきました。昭和51年11月完成。地震後も唯一耕英に通じる道となりその名にふさわしい役割を果たしてきた耕英の開拓道路。

栗駒山麓の大原生林の真っただ中、標高600メートル、

最低気温マイナス18度、積雪2〜3m 暴風豪雪地帯

こんな悪条件の下に どうして、開拓者が入植したのでしょうか。

他に適地がなかったわけでもないのに・・・。

多くのひとが疑問に思うはずです。

ただひとつ言えることは この地に駒の湯があり満州開拓団長の

菅原兵市
氏の父親が所有していたということ。

そして、栗駒山は神が宿ると言われる山。

敗戦後この世の地獄からはいあがり、何もないところから生きていく方法

を生み出すしかない立場に置かれた人々にわずかな希望をこの山は与え、

そして人々の重い苦悩と不安と怒りがとてつもないエネルギーを生み出し、

不可能といわれた耕英開拓を可能にしていった・・・。

ということなのでしょうか