
この時すでに栗駒山・駒の湯との運命の歯車が回っていた!? |
宮城県伊具郡耕野村の村長 八島考二氏は農村貧困問題解決策として満州への分村計画を進めました。そこで宮城県庁職員の菅原兵市氏(駒の湯の所有者を父とする)と運命的な出会いがありました。 |

八島考二村長 |

耕野開拓団満州開拓
昭和15年〜昭和20年
あの敗戦がなければ・・・。 |
若い八島村長の未来を切り開こうとする熱い心に共感した菅原兵市氏は県庁を依願退職し八島村長と満州開拓に乗り出しました。自ら団長として満州の開拓にあたり成功をおさめました。しかし敗戦となり満州の地で帰らぬ人と・・・。
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新天地浮上!!
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耕野開拓団が満州から帰京すると新たな土地を求めなければならず、団長の菅原兵市氏の父親が所有する駒の湯付近の国有林を解放すれば・・・と第二の耕野開拓団が結成され栗駒山に送られました。 |
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昭和22年〜
”耕英”と名づけた土地に
ぞくぞく入植!! |
満州耕野開拓団より秀でた開拓地にしようとの願いから秀(ひで)→英(ひで)と耕野の一字をとって”耕英”と名づけ二年有余の駒の湯での共同生活がスタートしました。
その後周辺の地域からも自分の土地を求めて耕英に入植し始めました。 |
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昭和25年11月完成
耕英開拓者の魂が形になった学校 耕英分校 |
念願の耕英分校建設の許可。農林省予算から四十万円の補助。町村負担分は開拓者の奉仕作業。
日中は住宅・学校建設。夜は現金収入のための炭焼き。困窮した生活。耕英開拓者が一番苦しい時期に完成させた学校 ”耕英分校”。 |
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昭和31年〜
チャンスがやって来た!! |
今までの苦労が恵みとなって堰を切ったようにあふれました。なめこ栽培の成功です。
毎日が試行錯誤の日々。次々と特産品を生み出した産業開拓の時期です。
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昭和24年に工事着工。車が普通に通れるようになったのは昭和51年。長い道のりでした。
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日本一長いといわれる開拓道路。
全長22q。延べ17年の歳月を工事に費やし、27年もの時が過ぎてゆきました。昭和51年11月完成。地震後も唯一耕英に通じる道となりその名にふさわしい役割を果たしてきた耕英の開拓道路。 |
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