教  秀       

  わずかなジャンプを積み重ねていこう。  

 
        【書のこころ】 e.レポート
  
 
第Ⅰ章  書 「まず書のことを知る」   ~理解編~

 
第Ⅱ章  心 「心の持ち方を変える」 ~活用編~

  
 第Ⅲ章  眼 書上達心眼を開く」     ~実践編~



 
書の心構えを説くはじめてのレポート (日本語版 A4 24ページ)

   
 【教秀解説編】  ・・・初級および中級レベル向け

   

     もういちど書の学び方を
いっしょにに考えてみましょう。

  

  
 

 表紙の一番最初の言葉は、まずあなた様に願うことです。これを実行するために本書を読ん
 
でいただければ、と考えています。

 9ページ目では、私の小学校時代の経験を話させていただきました。自分の恥ずかしい書に

対する当時の思いを素直に書きました。

 おそらく、これをお読みになって、読者のみなさまも、きっとご自分の小学校時代を思い出し

たのでは、と感じています。

 そして、中学校時代・・・さらに、大人になって亡くなった母とのちょっとしたこと(私には忘れら

れない稚拙な時代の出来事)・・・

 この文章を書いたのは、読者のみなさまも、私と同様に今まで忘れていたちょっとした書に対

してのできごとを少しでも思い出してくれれば・・・と思います。

 第Ⅱ章の最後に、今、私が感じている書に対する境地(書に取り組むための態度)を書かせ

ていただきました。


 さらに、第Ⅲ章では、今までの書道関係の本にはない、私自身の心構えを説きました。99%

ちかくの本は書技術関連とか歴史などのものがほとんどです。そこで、今までの書に対する苦

労したり味わったりした現実という「点」を自分なりの思考の流れの「線」でつなぎ、私の書に対

する「心構え」をまとめることが出来ました。きっと、あなたの役に立つと信じています。

 これらのことは、私の実践を通しての言葉ですので、私のVTRをご覧いただいている方は、

ご一読ください。

『起きる現実に一喜一憂するのではなく、自分の見方を変えることにより、目の前に起きるすべ

てのことは学びになり、美へつながるのです。』
 

hm5771@gmail.com メールしてね。 




【小説】
  書道   教秀

  【あのころ】 NO.1


 あるとき、こんな馬鹿なことを考えた。それは、もし一ヶ月でも30年前に戻れたら、・・・と考え
た。
 あのころ(昭和53年)、私は、やっと就職できて、とても忙しかった。また、家のさまざまな問題
で悩んでいた時期でもある。
 30年前に戻ると決めたとき、ふと次のことが脳裏をかすめた。私は、昔の自分にこれから起き
る全てを教えるべきか否かだ。もし、教えて、自分の運命が好転すればよいが・・・そうでなけれ
ば、まわりの運命までも変えてしまうのではないか、という不安だ。
 そのように考えると、ふとつまらなくなった。なぜって。それは、テストでも何でも人生の問題が
クリアするまで、何度も行き来するようなはめになるかもしれないと思ったからだ。それなら、問
題は一回限りでよいのではないか。もう一回のやり直しは良きにつけ悪しきにつけ、あまり新
鮮みがないような気がするからだ。
 書の作品も同じだ。やり直しがいつでもきくと思って書いていると、緊張感が薄れ、ろくな作品
はできやしない。
 そうこうするうちに、戻るかどうか・・・決断するときが迫ってきた。

 
【あのころ】 NO.2
 30年前への戻り方は、すんなりアイデアが浮かんだ。それは、眠りに入り、朝、30年前に戻る
という実に簡単な方法である。
  眠りに入る前に、緊張感が高まってきた。実をいうと、私は、過去には戻りたくないのである。
それは、楽しいこともあったが、それと同じように嫌なことや苦労なども数多くあったからである
それでも、戻りたいというのは、あのころの人たちにもう一度会いたい、という純粋な思いが強
かったという、たったそれだけの理由である。
 アメリカのバックツーザフューチァーの映画のように、格好良くもなく、さらには株や相場で儲け
てやろうなどということもさらさらない。まあ~、欲のない話である。
 いよいよ眠りに入る決心が固まった。こんなに意欲的に眠りたいと思ったことは、生まれては
じめてである。今とのしばしの別れに対しては、ちょっぴり寂しい面もある。
 そして、ベットに横たわった。不思議に、すーと睡魔が誘ってくれた。心の中で、「ありがとう」と
いい、眼から一筋の涙がこぼれた。 

 【あのころ】 NO.3
目覚ましが耳元でじりじり鳴った。ふと目を覚ますと、当時の(亡くなった)母がいて、「今日は、
日曜日だし、ゆっくり寝てていいんだよ。きのう、職場の飲み会でたいへんだったんだろ。」「夕
べ、おまえが台所に吐いたもの、お父さんがきれいにかたづけてくれたんだよ。」と言われた。
その場は、なんとかつくろった。そして、恐る恐る新聞をのぞき込んだ。間違いなく昭和53年
10月5日と書いてあった。
胸一杯に深呼吸をしてみた。うれしい気持ちがこみ上げてきた。それは、捜し物をして、やっと
見つけたときの気持ちといえば、分かってもらえる気がする。
「おれ、出かけてくるから。」と言い残して、家を出た。今は、すべて無くなった町並みを見るにつ
け、熱いものがこみ上げてきた。心の中で「いつもあると思っていたものなんて、ちょっとした時
間がたてば、すぐに泡のように消えてしまうんだな。」と思った。
 最初に行く場所に自然に足が向いていた。このころ、私は、囲碁を習いはじめで、実力はアマ
初段であった。そして、日曜日は、決まって石庭と呼ばれる囲碁道場で囲碁を打っていた。この
時の先生には、四子局のハンデで、置き碁対局をしていただいていた。今の実力をもってすれ
ば、こちらがこてんぱんにしてやるつもりで意気揚々と木造立て二階の囲碁道場の階段をのぼ
っていった。
「いや、まあ、はやいですね。まだ、午前10時だというのに、絶好調ですね~」などとこちらの
ご機嫌をとってくる。
早速、対局がはじまった。このころの戦法は記憶にあった。先生は、定石以外は打たない人で
ある。ハメ手などの邪道な手を絶対使わない方でもある。早くも、こちらの様子をうかがう手を
打ってきた。しかし、こちらは、正確に応戦している。そのためか、「びっくりしましたね。こんな
に正確に打つなんて、なにか、変わったことでもおありでしたか?」と不思議そうな目で私をの
ぞきこんだ。
その目は、まるで古典作品をまじまじと観察する鋭い書道家のような目であった。 

  
 【あのころ】 NO.4
 ここで、囲碁について、ちょっとだけ説明しておこう。囲碁は、自分の陣地を多く取ればよいの
である。それから、相手の石を囲むと、自分の石となり、あとで、相手の陣地を埋めることができ
囲った中の目数(もくすう)を数えて、多い方が勝ちなのである。覚えれば、簡単なルールであ
るが、対局していくと、奥が深いのである。いろいろな戦法がある。
それを棋風といい、いろいろなタイプがある。たとえば、地取りタイプつまり陣地を着実に築いて
いくタイプ、次に勢力タイプつまり陣地は持たず相手にプレッシャーをかけて、後で陣地を得るタ
イプ、最後は即争いタイプつまり相手の石を取り、途中で相手を降参に追い込むタイプなどであ
る。当時の私は、勢力タイプ&即争いタイプだった。今は、自然派である。そのときの気分で決
めている。ただ、若いときと違って、即争いタイプの部分は少なくなった。
私は、書道を趣味としている。その立場から、囲碁との関連性をこの機会に述べておきたい。
囲碁と書道は、とても相通じるものが多い。囲碁では、最初に打った手がもとになり、それがい
つしか絡み合って、全体の試合の構想の優劣が決まってくる。書道でも同じように、始筆が全
てのバランスや布置に大きく関わってくる。次に、囲碁では、部分をとるか、全体をとるかという
問題がある。これは、とても難しいのである。それは、急場であれば、部分をとらなければなら
ないし、肉を削って、骨を断つように、部分を相手にくれても、全体を見据えた手を打つべきとき
がある。これには、欲という感情と客観的な理性との葛藤がある。このあたりが、囲碁の醍醐
味と私は見ている。だから、5000年続いているのかもしれない。書道でも、同じようなことが
ある。それは、ひとつの文字にこだわりすぎると、全体のバランスを見失い、あとで作品を見た
とき、まとまりを欠くのである。その反面、全体のバランスばかりにこだわると、一字一字の筆勢
を失い、なんとも元気のない作品となり、見るに堪えないものとなる。だから、囲碁と同じような
大局観つまりバランス感覚が要求されるのである。
 さて、話をもどそう。
100手ほど進んだところで、先生の顔はゆでダコのように真っ赤になり、たばこをぷかぷかやり
はじめた。このしぐさは、かなり打つ手に困っているときの先生のお決まりのしぐさなのである。
 そのときである。先生が静かな声で、頭を下げ、「ありません」と言った。囲碁では、この言葉
は「負けました」と同義語なのである。続けて、「今日は、まるで別人と打っているような変な気
分だな~」とぼやいている。
心の中では、「さすが」と改めて、この先生を見直した。現在は、どうしているのだろう。平成元
年に、石庭を店じまいし、東京へ行ったが、その後の消息はつかめない。でも、先生の実力な
らば、何をやっていこうが、食べていけるのではないかと思った。

    
【あのころ】 NO.5
 石庭での囲碁は三戦全勝というものであった。当然の結果である。いくらヘボ碁の私でも、30
年という月日を無為に過ごしてきたわけではないのである。先生のなげきともつかぬぼやきの
声に別れを告げて、家へ帰った。母は、「さっき風間とかいう女から電話があったよ。またかけ
てくるってさ。」とそっけなく言った。
 そう言えば、この当時の友達を思い出した。彼女は、なかなかの美人であり、たしか私が通っ
ていた書道塾でいっしょになり、私からお茶に誘って、友達になった関係であったと思う。
タイミングよく電話がなった。やはり、彼女だった。久しぶりに聴く電話を通しての声は、とても初
々しい感じがした。
「もしもし・・・、わかった。」と言われて、我に返った。「何のこと」と聞き返すと、彼女は少し怒っ
た声音でこう言った。「だから、いつものところでお茶でも飲んで、話そうって、言ってるでしょ。
それから、私、生け花もはじめたんだ。それで、そのことについてもね。じゃ、あと一時間後。」
と言ったきり、電話を切ってしまった。
私は、彼女との出会いと別れまでをすべて知っている。それなのに、会いたいという気持ちは、
すぐにはわかなかった。
しばらく、庭に出て、ぼうっと秋空を眺めていた。鱗雲がずうっと続いていて、まるで私の人生と
重なるような気がした。そうこうしているうち、ようやく彼女と会う気持ちの整理ができた。
 そして、久しぶりにあの喫茶店のドアを開けた。カラカラという音が響いた。店内を見わたすと、
彼女が片隅に座って、こちらを見て、手招きをした。それに誘われて、笑顔を返しながら、席に
ついた。いつものウィンナーコーヒーを注文した。
 彼女から、「あのさ、この間聞いたでしょ。どうして、若いのに書道なんて習おうと思ったの?」
と切り出してきた。どのように、答えたらいいか、ちょっととまどった。すかさず、その表情を察し
て、「あなた、何か人に言えないことでもあるんでしょ。今どきの若い人が書道だなんて、爺くさ
いことに興味があるなんて、ちょっと変よね。」とのたまった。
私も、「じゃ、君の場合はどうなの?」と聞き返してやった。「私は、書道も生け花も教養として行
っているの。あなたのように、人に言えない変な動機じゃないんだから。」と言われてしまった。
あの頃の彼女が目の前にいるとなんともいえない感じにつつまれていた。「あなた、今日、熱っ
ぽくない、なんか変よ。ぼうっと見つめたりして、いつもの覇気を感じないもの・・・。風邪でも引
いたの?それとも、体調を崩したの?」との問いには、「ちょっと飲み会のあとで、疲れているん
だ。ごめんよ。」と素直に謝った。そして、ついに私の口から聞いてみたかったことをストレート
に言ってみた。「風間さんて、今好きな人いるの?」「えっ、先週も同じこと聞かれて、いないっ
ていったでしょ。」「あっ、そうそう・・・か。」と赤面してしまった。(しっかりしろ、30年間のキャリ
アはどうしたんだ・・・)
「ところで、また、教室で書道いっしょにやりましょう。」「あなたは、わたしより昇段がはやいけど
きっと追い越すわよ。こう見えて、わたし、内心は負けず嫌いなんだから。」「それに、生け花
で鍛えたセンスを書にもいかすつもりでいるの。」「だから、ぼうっとしてないで、練習しないとだ
めよ。わかった。動機不純さん。」と矢継ぎ早にたたみこまれてしまった。「わたしの予想だけど
あの教室って、結構、美人が多いでしょ。あなた、まさか、そのために・・・。」とペルシャ猫のよ
うな目で見られてしまった。ここは、正直に答えてやろうと思った。
「ああ、君のご想像のとおりさ。おれは、女性も書も何でも、美しいと思うものにはあこがれてい
るのさ。」と言ってやった。すかさず、「そうそう、そうでないと、いつものあなたらしさじゃないわ
」と甲高い声で笑った。しかし、店の中までひびいたので、あわてて口を手でおさえた。それでも
わたしを見つめて、笑っていた。
あとの会話は、どうでもよかった。店を出てから、あの彼女の笑う表情が目に焼き付いたままだ
った。書道でいうと、ただ単に古典を見るより、あこがれの感情を持って見ると、深く脳裏に刻ま
れるように。

  
 【あのころ】 NO.6
夕方、書道教室に行ってみた。今は亡き先生が私をあたたかく迎えてくれた。「今日は、きみだ
けなんだよ。」「え-」
「風間さんから聞いてなかったかな~。」「この教室にいた工藤さんが急に結婚することが決ま
ってね。女の人たちは、そのお祝いをしようということになったみたいなんだよ。」「あ~、それか
ら男性陣の仲間の牧田くんだが、急に東京出張のため、来れないって。」「君一人で、今日はが
んばってくれたまえ。」と肩をたたかれた。
このときとばかり、先生に質問してみた。「先生、臨書ってどうすればいいんですか?」しばらく
先生はじっと考えて、こう口を開いた。「じゃ、こんな質問をされたら、君はなんて答えるかな。」
「先生、人生ってどうすればいいんですか?」「さあ、どうかな。」と聞き返された。「・・・」沈黙が
続いた。(30年のキャリアを持った自分でさえも容易に答えることが出来なかった。)
「これといった決まった答えなんか、ないんだよ。」と先生の言葉が沈黙を破った。「どのように
書こうが、自分の書きぶりが出てしまうんだよ。100%その人になりきることは不可能だよね。
それでも、書くというのは、その書いた人の良さを素直に吸収しようという気持ちがないといけ
ないと思うんだ。」「自分をいかしつつ、他の人に学ぶという姿勢だね。それが、大切なのでは
ないかな。」「人生も同じだよね。周りを変えてやろうと思っても、なかなか変えることは出来な
いものさ。唯一変えることができるのは、自分のみ。」「自分を見つめて、研鑽することが大切で
あると感じるね。どのように、という方法論よりも。」
わたしは、先生の言わんとすることが今だから、理解できる。この頃のわたしは、競争誌のす
べての字を書いていた。すこぶる欲張りであった。いっぺんに何でも吸収してやろうとしていた
のである。それでも、先生は、あえて何も言わなかった。それは、そういう時期を自分も通り越
してきて、そのときの心理を痛いほど理解していたためである。だから、私の質問に対しても、
やり方を示すのではなく、心構えを築かせようという心配りで接してくれているわけである。
「今日の課題を書くから見ててね。」といって、行書を書いてくださった。久しぶりに先生の書き
ぶりをまのあたりにして、愕然となった。筆の流れ、勢い、そして、緩急、それらのバランスがす
ばらしい。まるで、半紙から字が飛び出してきそうな錯覚され覚えた。それは、字から気を放っ
ているといっても過言ではない。鳥肌がたつような感じがした。(技巧でなく、心で書いているん
だ・・・)
よし、私も、と思い、筆を取り、書いてみた。先生の声が聞こえた。「おお-、先週より断然ちが
うね。すばらしい。」
というお褒めの言葉をいただいた。でも、最後の先生のつぶやきが気になった。それは、「流れ
がきれいでも、勢いがないとね~。」(やはり、自分が気にしていたことをずばり言われてしまっ
た。)
「先々週、上野にみんなでいって、日展作品を見にいったとき、何を感じましたか?」と聞いたら
君は、「なにやらくねくね書いている同じような作品が並んでいる。」と言っていたね。「よく見る
と、あのくねくねにも、リズムがあるんだよ。さらに、墨の濃淡がそれを強調している。それと、
墨継ぎの位置。よく観察すると、いろいろ発見があるんだよ。」「実は、私も、同じような作品が
並ぶのはどうかと思ったがね・・・」「今日、もうひとつ、大事なことを君に伝えないとね。」「理屈
も大事だけれども、実際に書けないと何にもならんということさ。」
先生の書は、公民館の看板や市役所の看板の字として、現在も目にすることが多い。私が、ど
こか悩んでいるときに、「毎日、少しでもいいから、研鑽しないと、腕が落ちるよ。」といって励ま
してくださった言葉が今でも忘れられない。

   
【あのころ】 NO.7
 その夜、出張先の東京から、書友達の牧田から電話があった。「今日は、悪かったね。練習で
きなくて。」とのお詫びの言葉のあとで、明日の夜、いつもの一杯飲み屋で会う約束をした。受
話器を置いた後、酒が入ると、いつものやさしい態度と一変する癖があることをふと思い出した
 出張から帰ったばかりの牧田は、すこぶるハイテンションで、声音も耳に響き、酒の勢いもあっ
て、のりのりの状況であった。いつもの牧田節がはじまった。
「いいか、おまえといっしょに書を習い始めたが、おれは、おまえなんか相手にしちゃいないん
だ。」と彼の持論がはじまった。「おまえはな、人を見る目がない。作品を見る目もない。」だい
ぶ酒がまわってきた感じである。「あと20年してみろ、職種はちがえど、おれは、本業でも管理
職として、トップにた~つ。もちろん、趣味の世界でも、師範クラスだ。さらには、誌友1000万
人の頂点に立っているというわけだ。お~い、聞いてるか、うん。」「きみとは、ち~が~う。な
あ~。おい、聞いてるか。」
しつこく言われるので、何度もうなずいて、さからわない態度を取り続けた。彼は、このころから
何かと私をライバル視し、昇段のたびに、わたしの前で喜怒哀楽を表すのである。彼は、とても
野心家である。常に、目標を持ち、それに向かって闘争本能をかきたてていないと、創作意欲
がわかないタイプである。最初のうちは、わたしは相手にせず、マイペースで取り組んでいたが
次第に彼のペースに巻き込まれていく自分を当時感じはじめていたのである。
「この際だ。おまえにおれの本音を教えてやろう。」「今の教室をおれはやめようと思う。」といわ
れて、さすがに私も驚いた。
「いいか、これからは、中央に通じている先生につかないと、将来はないぞ。」「おまえだから、
言うんだぞ。」
「権威がないと、だ~れも見てくれないからな~。」と野心家の一面をのぞかせた。
30年後、彼は師範クラスになりはしたが、その上のクラスをひたすら今でも走り続けている。そ
して、まわりの友達へ「おれは、あの有名な先生の愛弟子なんだ。」と言いふらしている。しかし
誌友1000万人の頂点までは、どのくらいの時間がかかるのか、については聞く勇気は未だな
い。(噂によれば、牧田の言う愛弟子は50人くらいいるそうである。)
さらに、この間飲んだときには、書道教室を建てるために、3000万円必要となるという話を、
嫁さんに相談したら、激しく反対されたということであった。また、主宰の先生から、毎回手本を
書いていただくのも、万単位のお金がかかることや、コンクール入賞パーティーへの参加費や
お祝い代などのつきあい費を工面するために四方八方からお金を用立てているという噂も耳に
した。
書の道には、いろいろな道があると思う。それを選ぶのは、あくまで個人の自由である。牧田が
どんな道を歩んでも、それはそれでいいのだと今は思える。むしろ、牧田の目からは、私の方の
道が迷い道のように映っているのかもしれない。
実は、あのころに戻る二日前に友達から電話があり、牧田がたおれて入院したという知らせを
受けた。原因はわからない。近々、お見舞いに行こうと考えていたところである。どんなに
権威があっても、1000万人の上に立っても、ベットでただ横になっていてはつまらないだろう
と考えた。やはり、
健康に勝る宝は、ないのかもしれない。しかし、そのありがたみは、不自由
になってはじめて、気がつくというなんとも皮肉な話である。


  
【あのころ】 NO.8
 深夜になり、やっと自分の時間を持つことができた。昔の自分の机にすわると、その下に、大
きな段ボールが置いてあった。私宛の荷物であった。よく見ると、昨日付けのものであった。中
を開いて、驚いた。それは、平凡社版の書道全集であった。
 夏のわずかなボーナスや月給から少しずつ貯めて、ようやく購入したものであった。将来、きっ
と役立つだろうという思いで購入した。その当時としては、わたしにとって、大金であり、自分に
対しての投資のようなものであった。ページを開くと、インクのにおいがぷ~んとした。
「あ、そうだ。」と思い出した。実は、わたしは、この当時、お金の使い方について、母から学ん
だのである。10歳くらいのとき、私に向かって、母がこんなことを教えてくれた。「いいかい、お
金をいっぺんに貯めようと思っても、だめなんだよ。お金というのはね、少しずつ雨だれを下で
受けているバケツのように、貯めないといけないんだよ。勉強も何でも同じなんだよ。すこ~し
ずつ。でも、多くの人たちは、馬鹿にするのさ。そんな、みみっちいことをして、と。だから、いつ
までたっても、貯めることができない。小さいことさえも積み重ねられない人が、大きいことがで
きると思うかい?」この言葉どおり、母が地道に郵便貯金をしてくれていたおかげで、自動車の
運転免許を取るときや自動車を購入するときなどどれだけ助けられたか・・・・。母の口癖だった
「亀の甲より年の劫」をこの当時、やっと理解したのである。
 そのような母からの教えを受けて、私なりにそれを応用してやろうと、当時考えたのである。そ
れは、未来の自分に対して、プレゼントをしてみようと思ったのである。それが、この書道全集
だったのである。「きっと、30年後の自分はこれを全て頭の中に入れて、数多くの本を書いてい
るだろうな~。」などと夢見て、地道に貯めたお金を全てつぎこんだのである。
 自分の意思は今でも続いている。なぜなら、書棚の一番前に、その書道全集は置かれている
実家を離れて、転勤先のボロアパートからはじまり、転々と場所を移動しながら、現在の自宅に
落ち着くまで、ずっと、自分とともにあゆんできてくれた。この本たちは、なにもいわないが、私
と苦楽を共にしてきたのである。あるときは、邪魔もの扱いされ、押し入れに入れられたり、「そ
んなもの、役に立たないんだら、古本でも売ってくれば・・・」とか「引っ越しのお荷物になるから
処分してね。」など悪口雑言をあびせかけられたりした。それでも、じっと耐え、私とともにいて
くれるのである。改めて、感謝したい。もう一度初心を思い出し、この当時の自分にお礼をいい
たい。「ありがとう。」とメモ用紙に書いて、書道全集のページに、はさんだ。
 そんなことがあり、今でも私は、この考えを継承している。昔とちょっと違うところ、つまりちょっ
と進歩したところがある。それは、「未来の自分のために」に「未来のみんなのために」も並列し
て、加わったことである。これは、まさに私にとって、進歩である。だから、イーブックで「書の心
」を著したのも、この考えがもとになっているのである。それは、共有というキーワードにあては
まるかもしれない。
 共有という考えは、とてもすばらしい。地球でたった一人の考えや行動が、その人が発表した
おかげで、自分も利用できるのである。なんて心が広い行為なんだろう。それに影響を受けて
さらに、多くの人がさまざまの分野で自由に発表すれば、今まで以上の文化の
繁栄が望め
ることはまちがいないであろう。共に、分かち合えるということがわたしにとって最上級の喜び
である。
 このようなことから、今でも、せっせと貯めている。それは、お金ではなく、自分の書の経験と
いうデータである。30年後、みんなが喜んで利用できるようなものを積み重ねていきたい。

  
【あのころ】 NO.9
次の日、職場には、家事都合のためといい、三日間休みをとった。そして、自分の思い出の場所をゆっくりと訪ねてみようと思った。当時(30年前)のわたしであれば、そんな大胆な発想はわかないが・・・今の自分には精神的なゆとりが持てるのである。両親には、少し疲れているので、休みをもらったとよ~く説明して、理解してもらった。

まず、私が行きたかったのは弁財天のある社である。そこは、小さいとき、父といっしょに出かけたり、亡くなった姉やいとことお参りにいったり、現在の嫁さんおよび息子と願かけにいったりした思い出の場所である。

弁天様へ近づくにつれ、幼いころ、父がいった言葉を思い出した。「弁天様というのはな、女の神様で、学問や商売繁盛などに御利益があるんだぞ。だから、おまえは、しっかり勉強できますようにって、祈るんだぞ。」「それから、女の神様だから、彼女といっしょにいくと、ちょっとばかり、やきもちをやくそうだ。大きくなったら、ひとりで来るか、息子と来るといいかもしれないな。」という言葉であった。

私は、幼い頃から、弁天様にあこがれを感じていた。お嫁さんにするなら、あの弁天様のような人がいいな~と密かに思っていたのである。なぜなら、みんなを幸せにしてあげる人だから、今度は、私が弁天様を幸せにしてあげたいな~と考えたからである。こんなことを書くと今の奥さんとは、上手くいっているのかな?と心配してくれる読者もいるかもしれない。でも、だいじょうぶと言いたい。妻とは、自然体で過ごしていける。自信とか希望とかいうのでは、ない。本当に無為自然な思いなのである。

いろいろな思いを胸に歩いていると、大きな鳥居の下の階段を上がっていた。20段くらいのぼると、平たんな場所にでて、右手に出店が四軒ほど並んでいた。愛想のいいおばさんが「いかがですか、
七福神の置物、あなた様にぴったりですよ。」と話しかけてきた。笑顔で先を急ぐことを伝え、その場を通り過ぎた。

そこから、10メートルほど行くと、大きな沼が見えてきた。沼のほとりまでいき、よく見ると、大きな鯉がゆったりと泳いでいた。社務所で、鯉の餌を買い、餌をちぎって、水面に投げた。そうしたら、一斉に水底から、大きな鯉が集まりだした。私の餌を得ようと、大きな口を開けて、必死な様子で押し合っている。鯉の色も白や赤や灰色など様々である。よほどお腹が空いているようである。一つの餌に十何匹が集まる状況である。まるで、餌を与えている自分が殿様にでもなった気分である。まわりは、だれもいない。しかも、目の前に大きな沼がひろがり、鯉に餌をやっている。まさに、非日常の場面なのである。なお、この沼の鯉は、昔から神様の住む池なので、捕獲してはならないというお上からの通達があり、代々守られてきたのである。だから、鯉がとても大きいのである。それらがひしめき合い、バシャバシャという水音が秋の静かな空気に響いていた。

餌を与えているうち、必死に餌を得ようとしている鯉を見て、はっと思った。もし、餌を与える人が神様で、鯉が自分だとしたら、まるで現実世界を見ているような気がしたのである。瞬間、瞬間を精一杯何かを得ようと必死になっている自分と、餌を得ようと口をぱくぱくさせる鯉と、一瞬、同じように見えたのである。

まわりに目をやると、水面には、色づいた周囲の木々がきれいに映しだされていた。岸には、色とりどりの葉が錦絵のように浮いていた。まさに、秋の風景である。しかも、天気がこの上なく良くて、空を見上げると、雲ひとつない青空がどこまでも続いていた。沼の奥には、鴨の一群が陣取っており、その中の一羽が静かに毛繕いをしたあと、ゆったりと沼を横切っていった。

あわただしく生きていると、何気ない季節の変化にも気づかずに時は過ぎていく。しかし、今、立ち止まって、自然と共に生きていると感じられるこの時間こそ、最上の幸せなのかもしれない

 【あのころ】 NO.10
弁天様に別れをつげ、近くの灯台にいってみた。この辺では、有名な灯台である。一番最初にここの階段を登ったのは中学生の遠足のときだった。そのときは、とても見晴らしがよく、海がきれいに見えた。昼食の時、自分だけの秘密をつくっておいた。それは、地面に「また、いつか来くるからね。」と棒で書いたのである。そのこともあって、その後、何度となく、この灯台に来ることができた。ただし、強風のときは、てっぺんには、登ることができないときもあった。

ひさしぶりに、灯台の螺旋階段をぐるぐるまわりながら、ようやくてっぺんにたどりついた。灯台の下では、風を感じなかったが、てっぺんまで来ると、すこし強い風がふいていた。私は、あまり高いところは好きではない。しかし、ここまで来たら、と思い、てっぺんまできてしまったのである。天気が良いせいか、遠くまではっきりと見え、水平線を航行するフェリーまでミニチュアサイズで見ることができた。下に目をやると、足がすくんでしまった。下を動く人が蟻のように見えた。手すりにしっかりとつかまり、ぎこちない足取りでそろりそろりと360度のパノラマをスリル満点で冷や汗をかきながら、楽しむことができた。一周して中に入ったとき、自然に大きいため息がもれたほどである。

途中、螺旋階段ののぞき窓から、南側をのぞいてみた。港に小さい舟が入ってくるのが見えた。港で待つ人が、小さい点くらいに見え、忙しそうに動いていた。そうこうしながら、また目が回るような階段を降りた。出口のところで、急に明るい場所に出たので、目まいがした。そこから、逆に今まであがってきた急な階段をがくがくする足で降りていった。下りるたびに歯までがくがくする感じがした。

下から、見上げると、改めて、あんな高いところに上がったのかと驚いてしまった。今まで、あまり気がつかなかったが、磯の香りがしてきた。「ああ、今、自分は海辺に来ているんだな~。」という実感がわいてきた。そして、浜辺にでようとしたときである。大きな観光バスが横の道路を通り過ぎようとしていた。そのバスの窓から、私に向かって、笑顔で見知らぬ人が手をふってくれた。思わず、私も笑顔となり、自然に手をふっていた。バスが見えなくなるまで、ふっていた。心の中で、「ありがとう。気をつけてね。」と自然に言葉がもれた。

そのあと、浜辺に出て、あてもなく歩き始めた。近くの磯では、小さい子ども連れの家族が、磯遊びをしていた。よく見ると、大人が籠の中に青のりを採っていた。
「いい天気ですね。」とこちらから、話しかけてみた。そうすると、気さくに挨拶を返してくれた。
「その青のり、どうするんですか?」と聞いたら、 「天ぷらにして、今晩のおかずにするんですよ。」と答えてくれた。そのあと、「もし、よかったら、ちょっとですが・・・持って行きませんか。」といって、ナイロン袋に採ったものを持ってきてくれた。お礼をいい、中をちょっとあけてみると、海草のいい香りが漂ってきた。

もらった海草を手に長く続く砂浜を歩いた。きゅっきゅっと歩くたびに音がした。このあたりでは、この砂を「鳴き砂」といって、昔から大事にしてきた。海の環境の良い証拠とも言われている。波の音を聞きながら、ひとりで歩いていると、いろいろな思いが浮かんでは消え、消えては浮かぶという具合だった。

気分も伸び伸びしたついでに裸足となり、足だけ波につかってみた。10月になると、潮水はとても冷たい。一瞬、体がぶるっとなった。そして、しばらく浅瀬に突っ立ていた。そうして、目をつむった。足のまわりの砂が潮水に押し戻されてくずれていく。目をつむっている私には、海の中に引き込まれていくような錯覚を感じるのである。次の瞬間、予想を超えた大きな波が押し寄せた。すばやく戻り、膝のちょっと上までぬれてしまった。よく見ると、足は、乾いた砂だらけで真っ白になっていた。

太陽の光はやさしく輝き、潮風はほおをさすってくれる感じがした。近くにあった棒きれで、ぬれた浜辺に「書道」と行書で大きくしかもすばやく書いた。少しして、波がすべり込んできて、私が書いた文字を跡形もなく消し去ってしまった。
 

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