壬申の乱の原因は様々な要因が挙げられている。壬申の乱に至るまでの経緯を簡単に説明していきたい。
大化改新以前、皇位継承問題は大和朝廷内の有力豪族の権力争いに左右されることが多かった。崇峻大王の弑逆などがそれを物語っている。西暦645年の大化改新で権力は中大兄皇子などの実行者の掌中に入ったが、今度は皇族の権力争いが起こる要因となった。大化改新で中大兄皇子の母、皇極大王が退位し皇極大王の弟、孝徳大王が皇位についたが、これは中大兄皇子の意向が強く働いていた。まもなく孝徳大王と中大兄皇子の間は不仲となり、数年後孝徳大王が崩御すると再び実母を斉明大王として皇位につける。そして孝徳大王の実子有馬王子に謀反を起こさせるよう画策するのである。これに乗せられてしまった有馬王子は処刑され、斉明大王後の有力な皇位継承候補を脱落させることに成功する。また異母弟である古人王子も誅殺し、有力な皇位継承者は中大兄皇子と同母弟の大海人王子のみとなった。
大海人王子は中大兄皇子を補佐し、しばしば兄に代わって国事を見、外見も優れ文武に秀でた人物であったらしい。中大兄皇子も大海人王子に自らの娘を妃とするなど気遣いを見せていた。また二人の関係を取り持っていたのが中大兄皇子の腹心、中臣鎌足である。当初中大兄皇子に次ぐ皇位継承者は大海人王子を見られていたが、中大兄皇子が天智天皇として即位する前後から事情が違ってきた。
天智天皇と大海人王子の対立には額田王の存在も一因としてあげられる。額田王は当初大海人王子の妃として十市王女をもうけるが、のちに天智天皇の妃となっている。「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」などのやりとりから大海人王子の心中は浅からぬものがあったとも思えるが、乱の直接的な原因は大友王子の存在だろう。
大友王子は天智天皇と伊賀の国造の娘、宅子娘との間に生まれた子であり、母の出生からは皇位継承者としては不利な立場であった。しかし大友王子は容姿端麗、頭脳明晰に加え武事にも明るく、ひとかどの人物であった。天智天皇は彼を寵愛し、自分の後継者を大友王子にしたいと考えるようになり、これにより天智天皇と大海人王子の関係が悪化していく。天智天皇の即位式後の宴の席で大海人王子は突如長槍を取って敷板を刺し貫き、天智天皇を睨みつけ、非礼に激怒した天智天皇が大海人王子を斬ろうとしたものの中臣鎌足の取りなしで不問に付したとの記録がある。
中臣鎌足の調停もあって天智天皇と大海人王子の関係は表面上は沈静したものの、鎌足の死後両者の間は険悪な状態になる。西暦671年1月に天智天皇は制定したばかりの近江令の官制に基づく太政大臣に任命、それまで事実上の太政大臣であった大海人王子を政治の中枢から除外してしまう。大友王子の周辺を固めた天智天皇はこの年8月頃に発病、命数を悟った天智天皇は大海人王子を招き、天皇の位を譲りたいと告げたが、謀殺の気配を感じた大海人王子はこれを固辞、権力欲が無いことを示すために即日剃髪して出家し、翌々日には吉野へ引きこもってしまう。天智天皇は大海人王子の誅殺の口実を見いだせず、大友王子や蘇我臣赤兄、中臣連金、蘇我臣果安などの重臣に後事を託して同年12月3日に崩御する。「大日本史」ではこの後大友王子が即位して弘文天皇となったという説を主張しているが、ここでは大友王子のままで政治を引き継いだとしておく。
壬申の乱の原因を皇位継承問題の点から簡単に説明したが、内乱にまで発展した要因は他にもある。大化改新(乙巳の変)後、天智天皇は都を飛鳥から大阪湾に面した難波に移している。おそらく海外交流の便を考えてのことであろうが、白村江の敗戦後、唐・新羅連合軍の遠征が現実味を帯び、海岸線に面した難波は防御上不利とのことから、西暦667年内陸の大津に都を移している。この度重なる遷都は朝廷内でも批判が多く、遷都により直接、間接的な打撃を受けた豪族も多かったと思われる。そうした不満が皇位継承問題を内乱にまで発展させた面は否めない。
天智天皇の死の翌月、大津の朝廷内では非主流派であった大伴一門の大伴連馬来田と吹負の兄弟が都を去って、飛鳥へ帰ってしまうという事件が起こり、大津朝廷内ではこれを大海人王子側の謀略と見、警戒を強めていく。次第に大津朝廷側では大海人王子を滅ぼすべきとの考えが強くなり、それが動員令を発していない状態での戦争準備となったと思われる。西暦672年5月ごろ、大津朝廷側が美濃、尾張方面の住民を徴募し、武器を持たせているとの報が大海人王子側にもたらされ、大海人王子は熟慮の結果672年6月22日に至って挙兵することに決したと言われている。この決断には大友王子の妃となっている大海人王子の娘、十市王女(大海人王子と額田王との間に生まれた娘)からの急報もあったと言われてる。
大海人王子はまず自分の直轄地である湯沐に使者を送り、軍備を整えさせると共に東国の豪族に命じて不破関の占拠を命令し、併せて自身と家族の東国への脱出を計る。大海人王子は6月24日に家族を連れて吉野を脱出、近江朝廷側の追撃を心配しつつ夜間も行軍を行い、翌25日積殖で大津京から脱出した長子高市王子と合流、午後に鈴鹿関に至る。この間伊賀郡司が数百の手勢を率いて合流するなど道々で兵力を増強し、この夜もわずかの休息以外は行軍を止めずに翌26日には桑名にまで達する。この26日には四男の大津王子も一行に加わり、さらに美濃に送った使者から三千の兵力で不破関を占拠したとの報を受け、高市王子を不破関に送り、自身は桑名で初めて大休息を取ることを得たのである。不破関の占拠は大海人王子側が戦略的優位に立つ大きな要因となった。近江朝廷側は不破関以東の諸国に動員をかけることができず、大海人王子側のみがこれを行えるようになったのである。未だに白村江の戦いの傷が癒えない近畿地方からの動員には限界があったため、兵力的に大海人王子側が優位に立つ要因となったのである。
一方近江朝廷側はかなり早い段階で大海人王子の吉野脱出を探知していたと思われる。高市王子や大津王子の一行が退避途中の大海人王子一行に合流できたことから考えて騎馬部隊で追跡すれば大海人王子一行の捕捉は可能だったかもしれない。実際に騎馬部隊の追撃案が出されたが、大友王子はこの案を却下してしまう。この判断が結果的には大友王子自身の運命をも決めてしまうのであるが、大友王子は大海人王子の挙兵を口実に反体制勢力の一掃というより勇壮な戦略を考えていたのかもしれない。大友王子は東国、畿内、西国へ使者を派遣し、兵力の動員を始めたのであるが、兵力の動員は先に動いた大海人王子に分があった。有力豪族や皇族なども大海人王子側に組みする者が多く、吉備に赴いた使者は吉備大宰当摩公広嶋が動員命令を拒絶すると斬ってしまうという暴挙を行い、こうしたことが災いして近江朝廷側の兵力は整わず、さらに不破関の大海人王子側占拠により東国への使者はその任務を達成することができなかったのである。そして近江朝廷側の足下で思わぬ反乱が起こることになる。
大海人王子の脱出行から数日間は両勢力とも兵力の動員、集結を行い、戦闘に備える準備を行っていたのであるが、6月29日に突然先に近江朝廷側から離脱していた大伴吹負が古都飛鳥を数十騎で奇襲をかけ、占拠してしまう。大海人王子と吹負に事前の打ち合わせがあったかは定かではないがおそらく吹負の自発的な行動であろう。ともあれ大海人王子はこの報に喜び、吹負を大和方面の将軍に任命する。また飛鳥占領の衝撃は大和の豪族、三輪氏や鴨氏などを大海人王子側に寝返らせる効果をもたらし、吹負の元には千人以上の勢力が集結することになる。
大海人王子は吹負の挙兵による後背軍の発生という新たな事態に、軍を二つに分けて対応することに決する。一軍は伊勢、伊賀を経て大伴吹負軍に合流して南から大津京を目指す軍、もう一軍は不破関を越え、東から大津京を目指す軍である。対する近江朝廷側も軍を二つに分け、一つは古都飛鳥を奪回する軍、もう一方は不破関を目指し大海人王子の策源地を占領する役目を負った軍となる。同時に進行させると解説がややこしくなるため、まず飛鳥の攻防戦を解説したい。
飛鳥を占拠した大伴吹負は、軍勢を整えると北上を開始する。古都奪回効果で千を越える兵力となったものの、当然ながらこの兵力では大津京を陥落させることは不可能だった。おそらくこの北上は大海人王子側の軍備が整うまでの時間稼ぎを吹負が自発的に行ったものだろう。これに対して近江朝廷側は大野君果安に数千の軍を与え、吹負軍の壊滅を目指す。さらに河内から壱伎史韓国も二千の兵力で飛鳥への進軍を開始する。近江軍は二手に分かれての進軍であったが、当時の連絡手段を考えれば連携を保っての進軍は不可能で、個々に進軍するしかなかったろう。これが吹負軍の撃滅ができなかった大きな要因となる。
吹負軍は奈良まで進軍したところで北と西から進軍してくる近江軍を察知し、河内軍の進撃を食い止めるために高安(現在の八尾付近)へ軍勢を分け、飛鳥へも守備部隊を派遣し、自身は奈良で防備を固める。7月3日に韓国軍が高安を攻撃し、吹負が派遣した軍勢を一蹴する。翌4日に進軍してきた果安軍と吹負軍が激突し、吹負軍は大打撃を受け飛鳥に後退する。もしこの時近江軍が連携の取れた体制であったら飛鳥奪回は可能だったろう。しかし韓国軍は河内国内での大海人王子派の挙兵計画があることを探知し、それの討伐のために進軍が遅れ、果安軍は飛鳥の防備が堅く、すぐには陥落させられないと判断したためか軍を返してしまったために吹負軍は軍を立て直し、併せて美濃からの援軍約千人の増援を得ることができた。軍を再編した吹負軍は進軍を再開した韓国軍と激突、これを破る。こうして飛鳥防衛を成功させた吹負軍に対して、近江軍は犬養連五十君を派遣して飛鳥奪回を計るが、端陵付近での攻防の末、打撃を受けた犬養連五十君軍は退却せざるを得なかった。この後吹負軍は琵琶湖東岸を進軍する大海人王子主力軍に呼応し、古都難波京へ進撃する。
一方大津京から不破関に向かった近江軍主力は大海人王子側の軍備が整わないうちに不破関を奪回すべく進撃を急ぎ、7月1日には不破関の前面で前哨戦を行うが、翌2日に近江軍陣内で異変が起こる。近江軍は山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比らが率いていたが内紛が起こり山部王が蘇我臣果安に殺害されたのである。山部王が裏切ろうとしたと言われているが真相は分からない。山部王を斬った蘇我臣果安はその場で自殺したとも、大津に戻って大友王子に報告後自殺したとも言われている。ともかく内紛が生じた近江軍からさらに羽田公矢国が寝返り、近江軍は自壊していく。
一方大海人王子軍は7月2日に軍備が整い、大津京へ向けての進撃を開始する。大海人王子自身は美濃にとどまり、村国連男依らが軍を指揮していた。降伏してきた羽田公矢国を別働隊の将軍に任じ、琵琶湖北岸を迂回させ、主力は琵琶湖南岸を進撃する。さらに大和の吹負軍との連絡を保つために莉萩野、倉歴などの要所に派遣する。
大津朝廷側は自軍の内紛によって勢力が半減し、琵琶湖に流れ込む河川沿いに防衛戦を張る一方、大和方面の連絡を絶とうと画策し、田辺小隅指揮のもと7月5日に倉歴を夜襲し、これを奪回することに成功する。しかし田辺小隅は倉歴から飛鳥方面へ進撃し、大和盆地での戦闘を助けようとした。しかし翌6日に莉萩野を攻撃した田辺軍は反撃で大きな損害を被り、さらに追撃を受けて占拠した倉歴も放棄し、大津まで敗走する。
大海人王子軍は7月9日鳥籠山、13日安河、17日栗太と近江軍の防衛戦を突破し、22日には近江軍の最終防衛戦ともいえる瀬田に至る。近江軍も各地からの敗残兵をまとめ、大友王子自らが出陣し決戦が行われることになる。近江軍は将軍智尊の作戦により瀬田橋の橋板を落として大海人王子軍を瀬田川に落とす計略を行おうとするが、大津王子配下の大分君稚臣という者が甲冑を重ね着して強引に橋を渡ったために橋板を落とす機会を失い、大海人王子軍の渡河を許してしまい大敗する。智尊はこの戦いで戦死し、大友王子は西へ敗走し、大津京郊外の山前で首をくくって自決した。享年25歳。
大海人王子軍は24日に大津京に入り、近江朝廷の主だった人物の探索と逮捕を行う。26日に軍勢は大友王子の首級を携え、不破関に凱旋するのである。妃の十市王女(大海人王子)子供の葛野王を連れ、難を避けた。
乱平定後、大海人王子は大津京に入ろうとせず、吉野からの脱出行で通った道を遡り、飛鳥に入った、ここで論功を行い、あわせて近江朝廷側加担者の処分を行ったが、処分は軽く、さらに大友王子の子供である葛野王や御史大夫であった紀臣大人などを登用した。また八色の姓を定めて新しい秩序を制定した。一方で重職には自分の近親者を用い、大王の権力を高めることに意をはらった。こうして戦後処理を終わった大海人王子は673年2月に即位し、天武「天皇」となり、天皇制の強化を行うと共に「日本書紀」「古事記」の編纂を命令し、仏教を奨励するなど、以後の日本の方向性を決めた内乱として位置づけていいものと思う。