悲運の防人火麻呂と愛妻雅の壮絶な運命を描いた作品!
火麻呂 プロローグ
むかし、火麻呂と呼ばれる防人がいた。
防人十人の隊長、火長だったからそう呼ばれたのか、炎のような心を持っていたからなのかはわからない。
火麻呂は悪行の限りを尽くした。犯し、奪い、殺し、その上生みの母をも殺そうとした為、日本最古の説話集、日本霊異記にその名を残した。
第一章 ふぢの御衣
一
防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)いもせず
武蔵国多摩郡鴨郷(かものさと)の外れの杜(もり)に防人に召集された壮丁とその家族が群れていた。
雅は少し離れた小高い丘から吉志火麻呂(きしのひまろ)を見送っていた。雑踏の中にどうしても入る気になれなかったのだ。
逞しいはずの火麻呂がやけに寂しく小さく見えた。
火麻呂の視線が藤衣(ふじごろも)の(ふじごろも)雅を片時も離さない。
ようやく愛情が芽生えつつあったのに。三年もの間待つ事など出来るだろうか。火麻呂が防人に行けば実家に連れ戻されるに違いない。
同じキシでも一介の兵卒としていく難波吉志(なにわのきし)の火麻呂に比べ、雅は公卿の末席に連なる紀氏の娘であった。
公卿の娘としての養育を受けた雅は親の期待に違わぬ教養と美貌を身に着けていた。そんな雅に武蔵国守葛麻呂(くずまろ)が懸想し、婚姻を迫った。
雅はどうしても貧弱で野卑な葛麻呂を好きになれなかったが、定めと思い諦めていた。
そんな七月のある日の夕方、森はずれで一団の若者とすれ違った。
その一人、顔中髭だらけの逞しい男が雅に見とれて目を離さない。
「ああ嫌だ、まるで獣のよう」
と思った。だけでなく侍女にそう囁いていた。
言葉とは裏腹に雅は別のことを深層で考えていた。
「夫にするならあんな男が良いわ。契るなら、そよ風からも守ってくれそうも無い葛麻呂より、せめて彼の男の胸に抱かれたい」
突風が巻き上がり、砂煙が男の視線から雅を隠し、妄想を吹き飛ばした。
その夜、激しい嵐が武蔵を襲った。
そして雅の妄想が現実となった。昼間の男、吉志火麻呂が夜這ってきたのだ。
まるで餓鬼のようにして激しく雅を抱きすくめる火麻呂。激痛が走り、やがて痺れるような快感に覆われ、恍惚の中に身も心も侵されていった。
恍惚から醒めると森の中だった。
嵐の中で火麻呂が全裸の雅を担いで走っていた。
「フオー! フオー! フオー!」
走りながら歓喜の奇声を上げていた。
この男は夜這って来ただけでは物足りず、まるで子供が荘園から柿でも盗むようにして雅を略奪してきたのだ。
風と雨が雅の幸せだったとは言えない過去を洗い流して呉れるような気がした。何よりも嬉しいのがあの葛麻呂から逃げられるかも知れない事だ。
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