籠球部と部歌
昭和14年卒 曽根 欣吉
籠球と言う言葉があった頃、1932年のある日、私は籠球部員の一員となった。当時は特に部員の数が少なかった為、プレー技術粗末な私でも、よく試合に出してもらった。辻村主将を始め、中井、木内両主将等の諸先輩には、試合中迷惑どころか、ブレーキになった有様で、誠に御世話をかけた次第である。
ゴール下ならいざ知らず、片手でシュートでもしようものなら、大変なお叱りを受けた時代。シュートは必ず両手でプッシュ・シュートと決まっていた。又、入部して約2年間程は、1ゴール度毎、審判に依りセンターサークルでトスにより、試合は続行する事になっていた。3,5,10秒の時間ルールは、私の在籍中に出来たものと記憶するが、審判も仲々そう急に慣れず、見逃しもあった様で、バイオレーションになったのは一試合を通じて、1,2回程度だったかな−?勿論言行の30秒ルールは無かったし、又、スリーポイントのラインはコートには書かれて無かった。
其の後、数十年間に、ファウルとか、プレー上の規定も多少変更はしたものの、実際は、プレーヤー各自の技術進歩と、チームとしての協調性の向上に依り、ゲームの進行速度は、よほど速くなり、好プレーも続出、他の競技では見られない、すばらしい光景が、見られる様になったと、私自身感じている。
次に部歌の事について、私が学部2年の春だったと思うが、当時マネージャーをしていた湊君に話をしたところ、早速、立派な詩を作ってくれた。湊七三九君は英文科の秀才であり、2番の詩の文章等、上手に作られていると人様から誉めて頂く有様。歌う時は、なるべく1番2番と続けてほしい。私、此の詩を何度も読み、素人ではあるが、やっと曲が出来た次第です。
歌詩について最近、湊君に詩の解釈を再度伺ったところ、次の如く返事がきました。
「1番の恩情のオンの字は、温では無く、恩と書く方が正しい。日の光の恵みは神の心豊かな情愛と云う意味で恩という文字を用いた。
それは同志社の校風にふさわしい用字ではないかと当時の記憶があると。又、2番の光焔嚇嚇云々は、毎日午後3時からの練習を詠んだつもりで、夕陽が西に沈まんとする頃まで、時間一杯にコートを駈け廻った部員の有様。
そして西日の赤々と西空に輝く夕闇のせまる頃、苦しい練習に疲れ切ったプレーヤーの影が長くコートに尾を曳いている。それでも球を追い、走り廻っている部員の姿。光焔嚇嚇とは難しい漢語の様だが、当時は漢語としてはそれ程、耳慣れない言葉では無く、太陽の光の筋の赤々と輝くと云う意味で使った」と湊君から私宛連絡がありました。
現在は、田辺のディヴィス記念館インドアコートに全員が揃うだけでも大へんな事らしいし、それからの練習故、腹加減の具合もあるだろう。つらい事も多いと思う。私達の頃とは事情は異なるが、昔作られた歌詩が現状に合わぬにしても、バスケットボールをする精神的特性を生かし、勝つ為の詩であり、自分を慰め、又自分を励ます様解釈し、命をかけ、覇者を目指して頑張ってほしい。
次に曲については、一部の方から、ちょっと歌いにくいとか、其の他二,三の御質問もあったので、私も責任上、それでは何とか機会を見てと考へ、皆の集まる際には出来るだけ出かけ、憎まれ乍ら音頭とりをしていた次第ですが、まあ御勘弁下さい。歌う時は、少々違ってもかまわない。同志社の方々は賛美歌はお上手。でも部歌は、もっと勇ましく元気よく、歯切れよく歌ってこそ、曲の若さも生まれて出来る筈。今回、歌いやすくする為、ト調から、ハ調に変調しました。うんと低い音から歌い始めれば最后迄うまく歌えます。
1937年に部歌が出来、既に半世紀は過ぎた。部員同志で作った歌、余り他校にはないと思う。此の永い間、各時代を通して継唱してくれたOB諸君に対し、湊君と共に私も、深く感謝し、厚く御礼申し上げます。(「同志社大学バスケットボール部七十年史」平成6年5月刊より)
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